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出前授業など活動支援

二上小学校6年生へ寺島講師の出前授業(2018/2/17)

葛飾区立二上小学校6年生へ寺島講師の出前授業(葛飾教育の日)報告
平成29年度(上期)葛飾区地域活動団体助成事業
 
 テーマ: 新小岩のまちの歩みと水害の歴史を学ぶ
 日時:  平成30年2月17日(土) 午前9:35~10:20
 場所:  二上小学校体育館
 対象:  第6学年生103名、先生3名、保護者3名
 報告内容:
三階南向き図書室には春の陽が注ぎ込みまた暖房が程よく効き、第2時限のチャイムと同時に入って来た生徒達は一様に「ア!暖かい!」と言いながら床に思い思いの姿勢で座った。
当番の声掛けで一斉に「これから2時間目の授業を始めます。よろしくお願いします!」と、寺島講師を迎えた。
 
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講師は、「私は上平井橋近くに50年ほど住んでいました。学生時代の彼女が『隅田川から東は良く分かんないからお付き合いしない。』と言われ、それから葛飾や新小岩のことを勉強するようになり、葛飾が『寅さん』や『こち亀』だけでないということが分かりました。」と自己紹介が済むや、生徒達へ前以って配ったプリント用紙「新小岩のまちのあゆみを学ぶ」に「新小岩には大事なキーワードが4つあります。一つは荒川、二つ目は駅と工場、三つ目がカスリーン台風、最後が1970年謎の年です。」と答えを言うと、生徒は床や膝に下敷きを置きメモ書きを始めた。
スクリーンに荒川の無い古地図を示しながら、「西新小岩四丁目に『銭亀神社』があります。この辺り昔は海と繋がった沼地で、難破した船が迷い込み「千両箱」だけが残され,貧しかった村はそのお金で助かり、御礼に神社を建てたそうです。ここは湿地帯で水深が50cmより深いと蓮根を、それより浅いと米を作っていました。
昔、農家の人達は新小岩の稲は、①背が高く、②穂もまばらで、③実が少なく『三度びっくり』していたが、この稲を毎年神様のしめ縄として売り又、閑な夏は『麩海苔』作りが盛んで昭和の初め頃、日本の90%を新小岩で作っていました。ですから銀座では『麩海苔』の効いた和服姿の多くが、葛飾の娘さんだったそうです。次に、関東大震災後に葛飾区は工業地帯に指定されたため、荒川の開削で出た土が湿地帯の新小岩に埋められました。
1928年(昭和3年)新小岩駅が出来、工場の労働力や水道更に行政サービスが求められ、それまで東京市は墨田区まででしたが、1932年(昭和7年)葛飾区が出来、水道料金が今までの60%になるとやがて工場が建ち、人々が集まり出しました。皆さん『小保方さん』を知っていますか?」と講師は聞いたが、無言だった為スクリーンに理化学研究所の工場群と「B29」を映し出し、「当時、日本には高度12,000mを飛行する『B29』と戦える飛行機は有りませんでしたが、ただ新小岩の理化学研究所の工場だけは、B29を撃ち落とせる陸軍の特殊戦闘機『キ94』の部品を作り、空から分からないように金町の紡績工場へ送って、女工さん達が『キ94』を組立てていました。またアメリカやヨーロッパの兵士達が恋人に送るグリーディングカードに象牙に代わるセルロイド製が使われるようになって輸出され、殊に新小岩ではセルロイド製『キューピー人形』が盛んに作られました。玩具の『キューピー』を輸出すると何が返って来ますか?」との質問に、「お金です。」との声が上がった。
講師は、「そして今、葛飾はタカラトミー、モンチッチの関口などの玩具メーカーが金型作りから袋詰めまで、横のネットワークを使って絆を深めています。」新小岩に住み慣れている生徒達も初めて見聞きすることばかりだったためか、興味深く食い入るように講師の話と画面に引き込まれていた。
 
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続けて、「1947年カスリーン台風が関東地方を襲い、夜中に新小岩は1時間に8~10㎝水嵩が増え、この辺も水の深さが2.10mにもなり、木造建築の上平井小学校へは約1,600人が逃げて来ました。また、昼間はカンカン照りで瓦屋根の上で生活している人達は暑くて大変でした。しかも水が引くのに3週間かかりました。この間日本赤十字を始め多くの人が色々な物を運び助けてくれましたが、どうやって来ましたか?」との質問に、「車です。」講師は、「普段は車でも、水害の時でしたから船で運んで来たんです。でも動力がない船は潮の流れで自由が利かず、USAのGHQが持っていた鉄製の船がパンなどを配っていました。
当時水に流され、カメラも絵具もない中で、地元の若者が鉛筆で写生した水で流される橋を映し出し、「この橋は平和橋ですが、知っている人?」と聞くと多くの生徒が知っていた。次に船で運んでいる絵や家の中で作業する人の絵、その他を写し、「この船は何を運んでいますか?又、何の作業をしていますか?」との問いに、生徒達は直ぐに答えられなかったので、「船で水を運んでいます。水は何よりも大切で、人々は水を貰うため、大変な苦労をしました。家で作業している絵は、家財道具を屋根裏に運び上げている人です。次の絵は屋根から夜の月を眺める人、それに小学校へ逃げて来る人達の絵です。このようにカスリーン台風ではみんな苦労をしました。このような時に必要なのは何でしょうか?」との質問に、「船です。」との声が上がり、講師は、「そうです。でももっと大事で必要なのは、お互いのネットワークが大切なんです。このため、東新小岩七丁目町会ではボート訓練をしています。」と言って訓練の様子を画面で紹介した。
 
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次に講師は、「この写真は新小岩が工場地帯だった頃ですが、戦後工場では、何を作っていましたか?」の質問に答えが無く、「実は戦闘機の後、鍋・釜・やかん類を作っていました。
そして、工場に通う人が増え1944年(昭和19年)新小岩駅に北口が完成しました。でも戦争が激しくなって焼夷弾が落とされたりしました。この時も地域の人達はバケツリレーで繋がりを深めました。最後に1970年(昭和45年)万国博覧会が大阪で開かれ、アメリカ館・ソ連館は人気で入れなかった記憶があります。またこの年、公害防止条例が施行されました。新小岩は東京駅まで13分、成田やデズニーランドにも近く、外国の人達にとっても便利で、その上、ネットワーク作り、誰とでも付き合える良さが君達にはあります。例えば、俳優で歌手の中村雅俊さんはこの二つをコラボレーションして売れています。
皆さんもこのように良い所を結びつけたり、弱点を逆に強みに変えたりして下さい。併せて町の歴史を調べてみて下さい。これで私の話を終わります。」と結んだ。
司会の鈴木先生は、「新小岩の知らない事ばかりでした。皆さんも町での立ち話などを大事にして下さい。講師の先生に有難う御座いましたを言いましょう。」で、授業が終わった。
配られた用紙に、熱心にメモを取りながら講師の話に聞き入っていた生徒達は、満足した様子で図書室を後にした。
最後に、本特別授業実施に当たり、影山校長先生、川浦副校長先生、森主任先生に大変お世話になりました。本当に有難う御座いました。
 
 
 
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